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中野祗園祭について


1 祗園祭のもともとの由来
 平安時代の初め、京の町には天然痘や赤痢などの疫病が大流行していました。京都の夏は暑く、食べ物が腐敗しやすく、飲み水が菌に汚染されて伝染病が蔓延し、たくさんの死者が出ました。この時代、伝染病は「現世に恨みを残して死んだ人達のたたり」だと考えられていました。この時代は権力争いが激しく、恨みを残して死んだ貴族たちも少なくありませんでした。また、洪水・富士山の大噴火(貞観噴火)・東北の大地震(貞観地震)などの大災害も各地であり、これらも神の怒りによるものと考えられていました。
 疾病や災いを防ぐためには、怨霊や神を鎮めなければなりません。そのために、朝廷は「御霊会(ごりょうえ)」という祭礼を行なって、疾病や怨霊たちをなだめようとしました。そのためにお祀りしたのが「牛頭天王(ごずてんのう)」という神様でした。当時、牛頭天王は「神仏習合」といって、病気を癒す仏様である薬師如来の化身であると考えられていました。「怨霊を鎮め疫病神を退散させる神様」ということです。このように、「疾病の被害を止めたい」「怨霊を鎮めたい」という願いを込めた祭りが、疫病が流行する真夏に行われることになりました。
 なお、牛頭天王は後に古事記や日本書紀にある「スサノオノミコト」と習合し、同じものと考えられるようになりました。
 牛頭天王は876年から京都の「祇園社」(現在の八坂神社)に祀られ、このお祭りを「祗園御霊会」と呼びましたが、疫病の流行や災害の発生は全国各地にありましたので、この動きは全国各地に広まることになりました。
 なお明治時代になると、政府は「神と仏」をきっちり分けようと「神仏分離令」を発布しました。これを受けて「京都祇園社」は地名を取って「八坂神社」に、「祗園御霊会」は「祗園祭」に名前が変わり、八坂神社の祭神はスサノオノミコトとなりました。

2 「牛頭天王」とはどんな神様
 もともとはインドの神様で、病気や災いをもたらす悪い神様でした。しかし、インドで仏教が広がり、その教えが取り入れられると、一転してインドで5本の指に入る寺院「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」の守護神となりました。これには「悪い神様でも怒らさないように祭れば災いは起こらなくなる」、「お釈迦様の説法により改心し、自分の力を善のために使うようになった」など諸説あるようです。日本へは「疾病や災いを退ける力を持った神様」として伝えられ、江戸時代までは今の八坂神社はじめ全国各地の祇園社の祭神として祀られていました。

3 中野祗園祭の由来
 戦国時代、村上氏とともに信濃の有力豪族であった高梨氏の存在を抜きにして語ることはできません。
 1507年(永正4年)、越後守護代長尾為景は守護上杉定実をかついで、善守護上杉房能を松之山の天水に攻め殺しました。上杉氏は守護、長尾氏は守護を補佐する守護代であることを考えると、下克上もはなはだしい主殺しでした。
この時、高梨政盛は為景と組んでいます。
 1509年(永正6年)、房能の実兄であった関東管領(京都にあった室町幕府が関東を治めるために置いた職)上杉顕定は激怒し、その子憲房とともに、定実・為景・政盛らの為景与党を討伐しようと越後に乱入し、報復戦を繰り広げました。始めは優勢でしたが、永正7年6月、形勢は逆転し、顯定は為景・政盛の連合軍に破れ、長森原(現在の新潟県六日町)で政盛に討たれてしまいます。子の憲房は上野に逃れました。
 政盛は陣を敷いた大宝宮社で勝ちどきを挙げ、この社の祭神が牛頭天王で、6月は祗園会の祭り月であることを知ることとなりました。
 政盛は信濃に凱旋後、京都の祇園社より牛頭天王を勧請(分身をお迎えすること)し、毎年旧暦の6月に「牛頭天王祭り」を行なったと言われています。現在行われている殿様馬乗りは、この名残です。
 途中、諸事情により中断した期間もありましたが、江戸時代の歴代代官の支援を受けたことも今日まで継続されている大きな力になりました。1858年(安政5年)、時の代官柴田善一郎が、牛頭天王を勧請して町内を巡行することができる神輿を、飯山仏壇中興の祖といわれる飯山愛宕町の彫刻の名手、稲葉喜作昌常に作を命じ、これを下げ与えたとされるのが、中野祗園祭で巡行後、陣屋前広場の仮宮に安置される「天王神輿」で、中野市の文化財に指定されています。
 「天王祭り」は大正時代から「弥栄祭り」の名で行われ、昭和21年より「祗園祭」と呼ばれるようになりました。
 中野祗園祭は、御霊信仰と高梨政盛の凱旋記念の両者を取り入れ、童話「黒姫物語」とも重なり、さらに豊作や商売繁盛の願いも込めた民衆の安心・安全で豊かな生活を祈念した、他に類を見ない意味を持った祭りとして引き継がれて来たといっても過言ではないと思います。
 戦国時代の雄将上杉謙信の父親長尾為景の実母は高梨政盛の娘であり、為景の妹のつれあいが政盛の孫にあたる高梨政頼で、上杉謙信を支えた有力家臣であったことを思うと、高梨氏がその庇護を受けて戦国時代の北信濃を支配し、大きな影響力を持っていたこともうなずけるのではないでしょうか。



(松川神社氏子総代継承資料より抜粋)

☆ ゴミは正しく出しましょう!!
ゴミと資源物の出し方・分け方

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