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松川の川崎踊り

●松川区には古来から伝承、継承されてきた伝統芸能「川崎踊り」があります。
「川崎踊り」は中野市の指定無形民俗文化財です。現在は「川崎踊り保存会」の名称で区の団体として活動しています。

● 敬老会で披露された川崎踊りの演舞(令和4年9月)

「松川区史」第四章第六節 生活と文化 十三 庶民的な川崎踊り 

執筆者 檀原 長則氏

伊勢参宮と川崎踊り

 民衆の伊勢(皇室の祖神)参りの風習が広まるのは、室町時代(15世紀)からという。平和の続いた江戸時代になると、参拝者は平常の年で30~40万人といわれている。これらの多くは、村むらからの講からの代参者であった。
 これを取り持つのは、村からお札の札銭を集める御師(おし)(御祈祷師・中下級の神官)たちであった。代参者は御師の家(院・坊)に宿泊した。また当時は、一生に一度はと、代参講やそのほかの仲間数人で伊勢参りとあわせて、上方(関西)めぐりをする願望が強かった。信州からは、伊勢・奈良・京都を見物し、遠くは四国の金比羅さんまで足をのばしている。
 松川の川崎踊りの原型とみられるのは、伊勢山田の川崎(伊勢市河崎町)の妓楼(ぎろう 遊女屋)で唄われた民謡である。これが参宮沿道から全国に流布し、「伊勢音頭」の名で呼ばれた。それに伊勢踊り(伊勢内宮と外宮の中間にある古市(ふるいち)の妓楼で踊られたもの)が結びついて、川崎踊りとなったと考えられる。
 慶安三年(1650)ころから、人々が群参して伊勢参りをおこなうようになった。これはお陰参りと呼ばれている。正式な手続きもなく旅費もろくろく持たずの伊勢参りであった。
 全国からの参拝客相手の遊興地が古市にあったが、古市の船着き場は川崎(伊勢市河崎町)であった。この古市の妓楼の遊女によって見立てられ、磨き上げられて、川崎踊りとして座敷芸となっていった。松川の若い衆が伊勢参りの折、古市の妓楼に遊び、この踊りの優美さにうたれて、仲間と習い覚えて故郷に伝えたといわれている。松川の川崎踊りは、「伊勢踊り」いらいの古い形式をのこしながら、地域でさらに独自に発展したものと考えられる。

庶民的な川崎踊り

松川の川崎踊りの歌詞は七五七五調である。ひとつ歌い終わるのに約二分かかるゆるやかな、難しい節まわしで、それに合わせて優美な踊りの振りがつく。歌詞は昔からいろいろあったといわれるが、いま松川で歌われている歌詞は、

  瀬川と書いて逆さまに、淀の川瀬の水車
  猿丸大夫奥山に、紅葉ふみ分けなく鹿の
  年に一度は黒姫も、夏の祭りに雨で来る
  つむぎ取る手にくるくると、めぐる縁(えにし)の糸車
  痛くてならぬ血が出ます、娘初旅わらじずれ

などのように百人一首の歌と関連のある艶歌(つやうた)である。
 これに合わせる鳴り物は、三味線二組、大小太鼓ひとつずつ、チャンギリというたたき鉦(がね 小さなかね)ひとつである。歌の合い間に伴奏の笛が入るのが本来の姿である。踊り支度は、殿様お忍び道中の仮装で、踊りは右まわり(左まわりは縁起が悪い)、手振りは旧暦の閏(うるう)月(十三ヶ月)にちなんで、十三手よりなっている。外へ開くのが六手、内へ入れるのが七手のしぐさは、種をまくときより収穫が多いという豊作の願いを表している。踊りの振りの要点は腰にあり、ゆるやかに動く腰に何ともいえぬ風情がある。
 踊りのしくみは、殿様が奥方とともに、領内の実りの秋を見まわることを象徴する豊年踊りである。踊りは「殿様のお通り」「トーセ」からはじまり、これを合いの手に入れる。「トーセ」は、大名行列の奴(やっこ)さんの先触れ「通せ」であるといわれている。

戦前までの川崎踊り

 川崎踊りが中野に伝えられたのは、江戸時代後期以後と考えられている。
しかし明治以前の川崎踊りに関する記録はみられない。伝えられるところでは明治中期以後盛んになったという。松川を中心にして伝えられてきたのは、底抜け屋台のお囃子にみられるように、芸の達者が大勢いたからだとみられる。
 お盆にはやぐらを組んで南照寺(川東善光寺)の境内に踊り舞台をつくった。それを中心にして、大門町から中町にかけて東の白むまで踊り流す姿は、この世の極楽の感があったという。
 大正年間は如法寺相撲場で、中野町語遊会や諏訪町・湯町料芸組合の応援を得て、一般の人々とともに納涼踊りに川崎踊りを踊っている。しかし川崎踊りは歌詞と囃子が調和しないので、新進作曲家中山晋平に修正を依頼している。これらがきっかけとなって昭和二年(1927)中野小唄が発表された。
 一般に民謡は猥褻めいたところが多いことから、風紀上警察に押さえられていた時期でも、この川崎踊りは、県知事が警察署長の案内で見学したという話が地元に伝わっている。
 同一四年、東座(あずまざ 東町)で開かれた長野放送局主催の録音実況放送「下高井の夕べ」には、「川崎踊り」(中野町松川有志)、「下高井唱歌」(中野町連合男女青年団)、「六人囃子」(三番叟(さんばそう)・日野村新野青年有志)、「中野小唄」(中野湯町芸妓連中)が出演している。それ以後は戦争により、生活のすべてにわたり統制されるようになり、川崎踊りも停止のやむなきに至った。

戦後の復活と発展

 戦後の川崎踊りは、昭和二十三年(1948)ころから復活の話がではじめていた。二五年七月の北信タイムスには「名物川崎おどり復活か」の見出しで、正調を伝える栗原三代松・小野塚筆作などの松川の有志と、芸人だったといわれる山岸礼次らによる復活の動きを伝えている。
 さらに県内に川崎踊りの存在を知らせる端緒となったのは、中野実高の児玉信久(山ノ内町沓野)である。児玉は英語の教師であったが、民俗学に造詣が深かった。
 三四年、児玉教諭は信濃毎日新聞に「埋もれる郷土の庶民舞踊、川崎踊り」と題した紹介文を発表するとともに、同年、松川に交渉し、中野市で開かれた第九回長野県図書館大会にアトラクション出演してもらった。これを機会にふたたび「川崎踊り」が脚光を浴びるようになった。
 三六年、松川区民を中心に「川崎踊り保存会」(会長中村万平、会員二五人)が結成された。三八年に「中野市民謡保存会」と改称され、松川を中心に近在からの有志が参加している。
 このころから中野祇園祭り・松川公民館文化祭・敬老会などに松川伝統民族芸能として「川崎踊り」と「底抜け屋台のお囃子」が出演するようになった。練習は定期的または出演前日に集中しておこなわれ、メンバーには女性の姿がみられた。
 四八年、保存会長・区長・松川公民館長が中心となって、中野市に「川崎踊り」の市無形文化財指定の運動をすすめた。五五年「お囃子」と「川崎踊り」の組織が一本化され、「松川伝統文化保存会」が発足した。六一年(1986)、松川伝統文化保存会規約、同財産管理規定がつくられた。
 平成元年(1989)、松本市あがたの森公園で開かれた「信濃の国、楽市・楽座大集合」のステージに、一行三四人で「川崎踊り」を上演した。同四年、長野県などの後援で、中野市民会館において中山晋平生誕一〇五周年記念事業とあわせて、第一三回長野県郷土民謡民舞保存連盟大会が開かれた。そのときのアトラクションに、二〇人で「川崎踊り」を上演し、好評を博した。
 しかし伝統芸能を継承していくには悩みもある。「殿様のお通り」の歌詞にあるように、武家社会をまねた時代ものの踊りのため、衣装代が高いこと、かつら代・着付け料・化粧代などの費用がかかること、踊りがスローテンポで、若い者に抵抗があることなどである。
 九年に松川区と公民館分館の長年の要望が実って、中野市の無形民俗文化財に指定された。さらに一〇年には松川川崎踊り保存会が新発足している。

 お囃子と木遣りのはじまりと構成

 松川の底抜け屋台のお囃子は、明治二一年(1888)ころ、いまの長野市赤沼の金箱清左衛門から指導を受け、伝承されたといわれている(お囃日記)。また、御柱祭に唄われる松川木遣り歌も同年代にはじまったとされ、善光寺木遣りに似ているとされている。したがって同じころ、碓氷峠新道開削にたずさわった人夫から教わったものとみられる。これらの時代背景には、前年一〇月、中野町に芸妓営業の許可が下り、湯町に料芸組合、諏訪町に二業組合(芸者置屋と料理屋の組合)がつくられていたことが考えられる。
 しかし、お囃子をはじめた直接の動機は不明である。松川の底抜け屋台のお囃子の初演は、明治二二年の王日神社の遷宮祭のときであった。おそろいの刺し子を着て、町内を演奏して練り歩く姿は粋なものであった。明治末年の松川の御柱祭・豊年祭りにも盛大に参加した写真があり、引き手の若者は、木遣りの支度とみられる白扇を持っている。
 近在の祭りのお囃子は、祭りのふん囲気を盛り上げ、にぎにぎしいものが多い。しかし松川の底抜け屋台のお囃子は、祭りのお練り行列の後ろにつく習わしで、全体にゆったりとした調子に編曲されていた。祭りの喧噪を清め、人々の胸に余韻を響かせるしくみになっている。
 お囃子は三味線・笛・鼓(つづみ)・大小太鼓などの鳴り物で構成されている。曲は六部構成で、新囃子・京獅子・尻振り・通り囃子・引き返し・数え唄と名前がつけられ、約二〇人で演奏されている。松川のお囃子は歌舞伎系統の流れをくむものと考えられている。

 お囃子連の移り変わり

 お囃子連(はやしれん)は大正一二年(1923)には河東鉄道開通記念祭と、近在の神社の祭礼に出演している。中野東町(朝日町)の劇場東座(あずまざ)は明治一二年(1879)の創業で、昭和七年(1932)春、大改装を施し、階上・階下合わせて八八五人の観覧席を設けている。このこけら落としの舞台開きに、東京歌舞伎座の名優市川九蔵ほか座中の人々が来演した。このとき、一行は奈良屋旅館(西町)に宿泊した。そこへ四か町の底抜け屋台のお囃子行列がまわってきた。宿の二階で松川のお囃子を聞いた一行は、「こんな見事なお囃子を旅先の中野町で聞くとは思ってもみなかった」と、宿の主人に語ったといわれている。
 そののちお囃子の継承は、青年団の事業となり、毎年一月にお囃子の寒稽古を一〇日間にわたっておこなっていた。そしてこの練習は戦争末期のころまでつづいた。
 戦後の急激な経済成長と裏腹に心の荒廃がさけばれ、復古調が芽生える昭和五〇年(1975)ころ、復活の話がすすみ、松川区の補助も受け、鳴り物の楽器を購入した。そののちは練習に励み、六〇年にはNHK芸能百選に出演した梅屋右近(鼓の師匠)の指導も受けた。「地方のお囃子をいろいろ聴いていますが、こんなすばらしいお囃子ははじめてです」といわれた。そして同年と翌年に松川区民会館において同氏から鳴り物(太鼓・鼓)の指導を受け、そののち鼓のひもを寄贈され、「このお囃子は後世までのこしてほしい」と話された。

☆ ゴミは正しく出しましょう!!
ゴミと資源物の出し方・分け方

◉ 毎月第1金曜日
朝6:00〜8:00
区民会館駐車場で資源ゴミ回収をしております。

資源ゴミはビン、白色発泡トレイ、ペットボトル、牛乳パック、古紙(新聞、チラシ、雑誌、雑がみ)、ダンボールです。
ビン、トレイ、ペットボトル、牛乳パックはきれいに洗ってから出してください。詳しくは「ゴミと資源物の正しい分け方」をご参照ください。

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