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中野郷と松川


中野郷と松川

中野郷の開発
 松川の地名が初めて史料にみえるのは、慶長七年(1602)、森忠政の「川中島四郡検地打立之帳」からである。これ以前の松川のようすは不明である。しかし、検地によって突然村が出現したわけではなく、既存のムラが行政上の一村として追認されたのである。それを裏づけるものとして、松川には中世にさかのぼる寺社や社伝をもつ寺社がいくつかある。また字阿弥陀堂前からは、中世のものと思われる五輪塔が大量に出土している。その背景には寺社を維持したり、大量の五輪塔をつくれる人々がいたからである。松川では慶長七年以前から集落が成立していたのは確実である。
 中世には中野・松川・西条の三か村がひとつにまとまり、中野郷を形成していた。中野郷で、もっとも早く開発がはじまったのは、普代から東松川にかけての東部山麓沿いである。普代から東松川は、地下水が得にくい中野扇状地の扇央部ではあるが、東部山麓からの湧水があり、水の便もよかった。また、夜間瀬川は十五世紀ころまで、一本木と松川の境界付近から吉田の岩船境を流れていたが、東部山麓沿いは夜間瀬川の洪水の危険も少なかった。永観~寛和年間(983~86)に成立した『日本往生極楽記』には、如法寺(東山)の僧薬蓮(やくれん)の往生譚が記載されている。であるから、少なくとも一〇世紀後半には、東部山麓あたりの開発がはじまっていたらしい。
 次に開発されたのは、中野扇状地端部の湧水が豊富な西条である。嘉応二年(1170)、藤原助広(中野氏の祖)が、平氏から中野郷西条の下司職(げししき)(荘園の現地管理者)に任じられている。西条は十一世紀から十二世紀の中ごろには開発がはじまっていたらしい。のちに中野郷の本郷となる中野村は、湧水のあった南部の新保方面から開発がはじまったとみられる。
 松川は中野扇状地の扇央部にあたり、地下水が得にくい。また、砂礫層で水はけがよいため、水田には向いていない。さらに、松川はつねに夜間瀬川の洪水の危険にさらされており、中野郷のなかでは、開発が遅れていたと考えられる。松川の開発が本格的にはじまったのは、夜間瀬川の流路が現在のように北へ変わり、洪水の危険が少なくなった十五世紀以降であろうか。さらに松川の開発は、十六世紀のはじめに高梨氏が小布施町六川(ろくがわ)周辺から中野に進出し、夜間瀬川からの用水(八ケ郷用水の前身)を整備してから一段とすすんだものと考えられる。

松川の開発
現在の阿弥陀地蔵付近には、中世末期に阿弥陀堂が祀られていたが、天正六年(1578)に夜間瀬川の大洪水により流失したという。それが若宮村(当時灰塚村)へ移り、正翁寺がその後身という伝承もある。阿弥陀堂の南に広がる字阿弥陀堂前には五輪塔が大量にあったらしく、それが夜間瀬川の洪水で押し流されて、現在は南照寺の境内に集められ安置されている。阿弥陀堂は墓地に建立される例が多い。したがって阿弥陀堂周辺は墓地だったと考えられる。
 五輪塔は、その形態から十六世紀中ごろにつくられたものが多いが、阿弥陀堂周辺はそれ以前から墓地となっていたのであろう。阿弥陀堂周辺に墓地ができたのが十五世紀前後(最初中野氏、のちに高梨氏再興)とすれば、夜間瀬川が現在の流路に移行するころだが、それ以後も洪水は中野郷を直撃した伝承がある。干上がった旧夜間瀬川の阿弥陀地蔵周辺は「賽の河原」と見なされていたのではなかろうか。
 旧夜間瀬川の河道には川原地名がいくつかのこっているが、松川・中野関係の川原地名は中川原・下川原だけしかない。これは、少なくとも夜間瀬川が北西に移動したのち、松川・中野の氾濫原が比較的早く開発され、川原地名が消滅したためと思われる。十五世紀に流路を現在の方向に変えたとみられ、十六世紀前半に整備された夜間瀬川からの用水は、阿弥陀堂のすぐ北側で二分された。これが、鈴泉寺や法運寺の西側を流れる。この二本がのちの御陣屋用水と、南照寺の北側から湯町・西条へ流れる西条堰となる。松川では旧夜間瀬川の氾濫原についで、これらの用水堰沿いも開発が進んだらしい。
 松川の地形は、中野扇状地に沿って北から南へ傾斜している。しかし、松川の地形をくわしくみると、いくつかの微高地やくぼ地が縦に筋状に分布している。松川の微高地は現在、四筋が確認できる。幸町を東へ相生町にかけて、これらの微高地がよくわかる。微高地は西から順に若松町と緑町の間、緑町と辰巳町の間である。これらの微高地は、約二〇〇メートル南の中央通り・東横町でも確認できる。なお、微高地に囲まれたくぼ地は、かつて夜間瀬川が乱流した痕跡であろう。
 このうち、緑町と大門町の間の微高地には中野堰のうち西条堰、大門町と立町の間の微高地には同じく小田中堰が流れている。松川の古い家はこの微高地沿いに分布している。これらのことからも、大門町付近の開発は、中野堰が微高地上に開削されてから以後と考えられる。
 これまでややもすると、松川は東松川から分離して成立したと考えられていた。しかし、辰巳町と八ケ郷用水更科堰の間は大きなくぼ地となっており、かつて夜間瀬川が分流していたところと考えられる。このくぼ地は松川と東松川の境界となっている。普代から東松川は一一世紀にはすでに開発がはじまった。西松川の鎮守が諏訪社であり、東松川の鎮守が山神様であること、泰清寺の檀家のほとんどが東松川であることから、松川はこのくぼ地をはさんで十六世紀以降、東松川とは別に新たに開発されたのであろう。

(松川区史 第一章 第一節 四  執筆者 酒井 健次)

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