戦後の祇園祭り
第四章 第六節 生活と文化 七
執筆者 壇原 長則
七 マチ場の信仰と祭礼
戦後の祇園祭り
大戦後の混乱期においても中野の祇園祭りは、休むことなくつづけられてきた。しかし馬乗り行事が復活したのは昭和三十年(1955)である。ここでは昭和五十年(1975)前後の祇園祭りをみてみる。
七月十九日午後に松川神社拝殿(大門町)に神職が出張し、切り飾り(しめ)をつくり、玉ぐし・お供え物などは、前夜祭と本祭典の二回分用意されている。
十九日の前夜祭は、西町・中町・松川・東町の順でおこなわれ、松川神社(東松川)では氏子総代をはじめ区の役員が服装を正して集まり、祭典の準備をして、午後七時五十分までに役ちょうちんを持って中町祇園社まで神主を迎えに行き、八時過ぎから区内の平穏無事を祈って祭事をおこなった。
二十日の本祭は、松川・東町・中町・西町の順におこなわれ、松川神社では午前九時から祭典がおこなわれた。終わって馬乗り行列に移り、区内から選ばれた小学生による殿様(若武者)が自宅をでて、神社で区の役員とともに記念撮影をし、一〇時に神社前を出発。行列の人員は正副区長・区役員・氏子総代などの祭典係・保護者等、約二八人であった。そろいの帽子をかぶり、法被姿で、午前中は松川区内をくまなく一巡。午後は二時に、中野陣屋跡に四ヶ町の馬乗り行列が集まり、松川からは正副区長・氏子総代・殿様選出の組長・保護者・手綱持ちなど三人、合計一二人が参加。この行列は四ヶ町を一巡し、若殿様の該当区に来たら、その区の若殿が先頭になる習わしであった。
戦後松川では殿様衣装は区で調え(または篤志寄付など)、個人負担はなくなって、だれでもでられるようになった。馬乗り行列の費用は、商工会議所の補助金と、区の祭典比費から支出されている。五十年の馬乗り行列の費用は、馬は持ち主ともに一万一〇〇〇円、二人の手綱持ち一人三〇〇〇円、旗持ち一人三〇〇〇円、鈴振り一人二〇〇〇円などである。
手綱持ち(よその人が多い)と旗持ちは法被姿で、頭に豆絞りの手ぬぐいをかぶり、パンツに地下足袋の姿であった。若殿様の家からは手綱持ちなど三人に、御祝儀六〇〇〇円と酒三升を出している。
ほかに町内にしめ飾りをおこない、青年団によって中町と西町に祇園社(お旅所)がつくられ、お神輿と屋台、山車が四ヶ町をまわることになっている。祭典がすべて終了してから、区民会館で慰労会が区主催で開かれている。
高度経済成長期を過ぎた昭和四十九年(1974)ころからは、この祇園祭りは、神様が群衆の雑踏するなかにお神輿や山車などとともに、昼間練り歩くので、娯楽性が強く、信仰とはかけ離れたものとなっている。
「松川区史」625p~626p。西暦年度表記のみ横書きに改編。
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