松川区の情報を発信

開発と用水

 第一章 第二節 一 執筆者 河野 実 二 開発と用水
 
中野郷の開発
中野郷の開発のはじまりと用水との関係をみると、東部山麓寄りの沢水・湧水の地帯と、南部の扇状地末端の湧水地帯、さらには旧夜間瀬川沿い東の平坦地が早くからの開発地である。それにくらべ扇央部の中野のマチ場は、用水の便が悪く開発が遅れてしまった。
 東部山麓寄りには、如法寺・泰清寺・常楽寺・霊閑寺など、平安時代末から室町時代にかけて建立された古い寺があり、早くから開発されたことを物語っている。山の沢には細々ながら水が流れ、山すそには湧水が点在しているので、ささやかながら生活用水・農業用水が容易に得られた。
 なかでも普代から東松川にかけては、一番早く開発されたとみられる。ここには、一二世紀前半の『今昔物語集』にでてくる如法寺がある。また応永年間(1394~1427)紀州の僧了弁が中興開基したという寺伝もある。
 普代の荒井一族の祖先は、この了弁と一緒に紀州から来て、門前百姓として住みついたものだという。また高梨氏の譜代(代々仕えてきた家臣)が住みついたので普代の集落名になったという伝承もある。こうした伝承からも、寺の建立とその周辺の開発が一体となっているとみてよかろう。
 如法寺の近辺にはかなりの沢水が流れており、山すそには湧水も点在している。また、夜間瀬川の洪水の危険が少ないため、このあたりが中野郷で一番早く開発されたところといわれる。『中野市誌』によると、ここから東松川のあたりは、中野郷西条にたいして中野郷東条のあったところと推定され、中野御牧の支配者藤原秀郷藤原秀郷ひでさとの子孫である中野佐藤太系もしくは中野尾藤太系の所領だろうとしている。東松川には、一四世紀前半に創建されたと伝える臨済宗(りんざいしゅう)泰清寺(のちに曹洞宗(そうとうしゅう))があった。ここは帯ノ瀬の両山すそを流れる沢水の流末が、この寺の前で一筋にまとまる用水の要所であり、生活用水が得やすい場所である。
 栗和田の常楽寺の前身は、寺伝によると、鎌倉時代末から室町時代初期に活躍した五山派(臨済宗)の主流、()(そう)()(せき)を開山とする()帰山天(きざんてん)南寺(なんじ)である。寺のそばの山すそからは清水が豊富に湧きでている。また、栗和田の山寄りに古屋敷の地名があり、はじめ栗和田の人はここに住んでいたと伝えている。ここも山間から清水が湧いていて、生活用水と農業用水に使っていたようである。
 日の出松には、室町時代(一五世紀)の建立と考えられている霊閑寺があった。寺の近くに霊閑寺用水堰がある。この堰は江戸時代末に、更科堰から正式に分水するようになるが、それ以前は更科堰の()れ水を利用していた。


 このほか旧夜間瀬川の水を利用した松川の開発が考えられる。ここには、南照寺・光堂・阿弥陀堂という古い寺と堂があった。南照寺は平安時代末(一二世紀)の創建と伝えている。光堂は中野氏の()()によって建てられ、阿弥陀堂はそのあと高梨氏の()()によって建てられている。これらの寺・堂の飲用水は、旧夜間瀬川(松崎川)の水と考えられる(『中野八ケ郷水利史』)。
この川が地理的に近いことと、このとき夜間瀬川の本流が北へ移動していたとしても、まだ小さな分流が用水路としてのこっていただろうことから推測される。
 また、屋敷地名と旧夜間瀬川の位置関係からすると、旧夜間瀬川の水を生活用水に用いたと考えられる。寛文五年(1665)の検地帳には笠屋敷が旧夜間瀬川近くにある。明治初年の地名をみても松川には西屋敷がある。旧夜間瀬川に沿って、南へ上笠屋敷・下笠屋敷・笠屋敷・長屋敷・東屋敷沿・西屋敷沿などの屋敷名が並んでいる。
 扇状地末端の湧水地帯も早くから開発された。西条は一二世紀の中ごろ、藤原秀郷の系統と同族と考えられる藤原助広(弘)が主導者となって開発したようである。嘉応二年(1170)の「市河文書」によると、助広は平家某により中野郷西条の下司(げし)(しき)に任命され、鎌倉幕府から西条の地頭職に任命されている。その子中野(よし)(なり)は、元久元年(1204)鎌倉幕府から名田(みょうでん)一〇町歩と屋敷地を安堵され、内作(うちつくり)(手づくり地)一町八反歩を認められた。湧水を生活用水・田用水としてかなり広範囲に開発を広げていたようである。正応三年(1290)鎌倉幕府の下知状(げちじょう)には、中野堀内・中野屋敷とでてきて、中野氏の館があった。つまり館の周辺に一〇町歩ほどの名田と一町八反歩の手作り地からなる田が広がっていた。文書にはでてこないが、畑もあったはずである。
 
夜間瀬川流路の変化と中野堰
 かつての夜間瀬川は、一本木と中野・松川の境界近くから、吉田と岩船の境を流れ、江部を通り、草間の南を流れて、千曲川に注いでいたとみられる。一五〇〇年前後ころ、この夜間瀬川が高社山麓を流れる笹川につながって、現在のような川筋になったようである。河身が西へ変わったので、中野扇状地の洪水の危険は少なくなった。さらには、中野・山ノ内地域を高梨氏がほぼ支配するようになってから、中野堰の開削がなされて、マチ場の開発がすすんだ。
 夜間瀬川の河道がいつ移動したのかはっきりしないが、『中野古来覚書』のつぎの記述が若干のヒントになる。
「延徳元年(1489)沓野の奥、岩倉沢という池が溢れ抜けて越川(夜間瀬川)の水路をふさぎ、水が横に走りて南の遠洞(えんどう)()(はい)り」とある。これによると延徳元年には、夜間瀬川の河道が移動して現在のようになっていたのである。『中野古来覚書』の記述内容を、そのまま信じることはできないが、他の史実からみてかなり事実に近いと思われる(「信濃高梨氏城下の景観復原」)。そうだとすれば、夜間瀬川河道の移動は、中野氏時代におこなわれたのかもしれない。
 さきにものべたように夜間瀬川河道の移動後も、まだ小さな分流がのこっており、用水路として使用していたようである。そののち中野堰が開かれ、安定的に用水を得ることができるようになるが、その時期は高梨氏の小舘入城間もなくの一六世紀初期とみられる。高梨氏が夜間瀬川流域の山ノ内に加え、中野地方全体の支配ができたので、それが可能になったのである。
 中野堰の本流は、夜間瀬川の揚水口から字松川境の分水口付近までの上流は、ほぼ旧夜間瀬川に沿っている。分水口からは、町部のほぼ中央を流下し、現在の鈴泉寺および法運寺の西側を流れ、これが江戸時代は御陣屋用水といわれていた。この堰の流末は小田中村の田用水となっている。鈴泉寺は戦国時代後半の弘治二年(1556)、更科からいまの場所へ移転したという伝承がある。法運寺に井戸はあるが、江戸時代中期以降のもので、それ以前はもっぱら中野堰の用水に頼っていたとみられる。このことから、二つの寺は中野堰開削のあとで建立されたことがわかり、中野堰は一六世紀半ば以前に成立していたことになろう。
 つぎに字松川境の分水口で中野堰から分かれた西条用水は、町部の西寄りを流れ、流末は西条村に入って田用水となる。旧夜間瀬川沿いには、松川から西条にかけて笠屋敷地名が並んでおり、笠屋敷地籍は旧夜間瀬川の分流を用水に用いたようである。ちょうど笠屋敷地名のまん中を、もう一本の中野堰が流れている。
このように、一五世紀から一六世紀前半の早い時期に成立した中野堰は、分水口で二筋に分かれ、マチ場の寺院と西条方面の飲用水を供給したのである。

松川地域の開発
 松川村で一番古い検地帳は、寛文五年(1665)のものである。この検地帳によって、中世末期の松川村地域の開発のようすをみると、東の山寄り地域(更科堰沿い)と扇状地上(中野堰沿い)に分けられる。
 東の山寄りで水田化されたところは「霊閑寺前」「家の裏」「十二宮(松川神社)下」である。また地味が良く、上・中畑の割合が多い場所は、「如法寺道上」「大坂道下」で、開発面積の広い場所は「帯野瀬道下」「霊閑寺」である。つまり、如法寺・泰清寺・霊閑寺の近くは地味が良く、湧水・沢水などによる水田化も可能だったので、早くから開発されたのである。更科堰の開削は、この周辺の開発に大きく影響している。
 扇状地上に中野堰が引かれたので、分水口の近くの「堂の東」と「石原田」に一町歩弱が開田された。しかし水田はわずかである。中野堰が松川村にあたえた影響は、生活用水が安定的に供給されたことであり、マチ場の開発・形成に大きくかかわったのではなかろうか。検地帳でみると、屋敷五反三畝歩余に加えて、新屋敷一反二畝歩余となっている。字新屋敷が屋敷地であり、中野堰沿いに位置している。
 畑の開発がすすんだのは、旧夜間瀬川沿いである。面積でみると「中野道上」「中川原」「笠屋敷」「岩船境」など一〇町歩余となり、松川村の畑のほぼ半分にあたる。しかし、岩船境以外は等級の低い畑である。かつては旧夜間瀬川の河原であったからであり、新しく開発されたからであろう。
 
 
「松川区史」33p~38p。西暦年度表記のみ横書きに改編。

☆ ゴミは正しく出しましょう!!
ゴミと資源物の出し方・分け方

◉ 毎月第1金曜日
朝6:00〜8:00
区民会館駐車場で資源ゴミ回収をしております。

資源ゴミはビン、白色発泡トレイ、ペットボトル、牛乳パック、古紙(新聞、チラシ、雑誌、雑がみ)、ダンボールです。
ビン、トレイ、ペットボトル、牛乳パックはきれいに洗ってから出してください。詳しくは「ゴミと資源物の正しい分け方」をご参照ください。

★松川区民会館 駐車場利用の際のお願い

● 中野市の除雪状況
(シーズン期間外です)

中野市松川区ウェブサイト
長野県中野市中野1853
0269263112
(電話による予約受付はしておりません)