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領主の移り変わり

 第一章 第二節 一 執筆者 太田 典孝
 一 領主の移り変わり
 
高梨氏の進出
 高梨氏は「尊卑(そんぴ)文脈(ぶんみゃく)」(室町時代)という系図によると、源頼朝と同じ清和源氏の出で、井上氏(須坂市井上)の一族とある。『源平盛衰記』で木曽義仲の四天王の一人とされている高梨忠直(ただなお)や、京都妙心寺を開山した関山(かんざん)()(げん)も高梨氏の出身である。以下、「信濃高梨氏城下の景観復原」(『中世の村落と現代』湯本軍一)・『中野市誌』をもとにして記述したい。
 鎌倉時代の高梨氏は、源平の争乱のとき、一族のなかに義仲に味方した者があったために不遇だったのか、史料にはあまりみられず、その動向は定かでない。出身地は、通説では須坂市の高梨付近であったらしいが、鎌倉時代すでに同姓の高梨氏が越後(新潟県)にもいたのである(「六条八幡宮造営注文」一二七五)。
 しかし、高梨氏は南北朝の内乱期以降、村上氏につぐ北信濃の有力武士団として頭角を現わしてくる。明徳三年(1392)、高梨朝高が、所領の安堵を求めて室町幕府へ書き上げた目録をみると、領地は千曲川流域の長野市近辺に多く、中野付近には少なかった。また、十五世紀の中ごろには、すでに本拠地を小布施町の(ろく)(がわ)付近に移していたようである。
 そして十五世紀中ごろから、高梨氏の勢力は北へ向かっていちじるしく伸び、本拠地を中野郷に移すことになる。これには、二つの大きな契機があった。そのひとつは、寛正四年(1463)の高橋(中野市西条の南端・新保境)の合戦である。室町幕府の命令に従わない高梨氏を討とうと、越後守護上杉房定が同族の()馬頭(まのかみ)を差し向けた。右馬頭は高橋(西条・新保付近)に乱入し、放火をして荒らしまわったが、高梨氏が逆襲し、右馬頭を敗死させた。この合戦にさいし、高梨氏に圧迫されていた中野郷周辺の領主たちは、上杉方に味方した者が多かったようである。その結果、大熊氏や中野氏の同族新野氏が没落し、その領地大熊郷・新野郷が高梨氏に奪われている。中野氏の動向は不明であるが、おそらく反高梨氏の立場をとっていたのだろう。
 もうひとつは、永正四年(1507)、越後の守護代長尾為景(ためかげ)が前守護上杉(ふさ)(よし)と越後一国支配の主導権を争い、越後のみならず北信の領主をも巻き込んで大動乱に発展した。これが越後の(えい)(しょう)の乱である。高梨(まさ)(もり)は為景の外祖父と伝えられており、また越後の領地を維持する必要からも、他の北信の領主とともに為景を支援した。しかし、戦いは途中から為景と守護上杉定実(さだざね)との主導権争いとなった。政盛以外の、村上氏を中心とする北信の領主は定実を支持し、政盛は北信で孤立した。この争いのなかで、高梨氏は、村上氏側についていた中野氏を滅ぼしたらしい。同十年(1513)、村上氏の領地小島田(おしまだ)(長野市)に亡命していた中野氏浪人と中野郷(松川・西条をふくむ)にのこっていた中野氏の残党、それと高梨一族で(すげ)郷(山ノ内町)を領していた小嶋(こじま)氏、さらに高梨氏の重臣夜交(よまぜ)氏(中野一族)が相呼応して、高梨氏にたいし反乱をおこそうとした。しかし反乱は、高梨氏の重臣草間氏の働きによって、たちまち鎮圧され、中野氏は中野の地を没落した。
 こうして中野氏を討ち、中野郷を手に入れた高梨氏は、中野に(たて)を造り本拠地としたが、永正の乱の経緯から考えて、その時期は永正十年(1513)ころと推測される。江戸時代に書かれた『中野古来覚書』(白井政敏家文書)は、「永正六年までは、干上がった遠洞(えんどう)()(延徳の沖、実際は沖積低湿地状)のところどころに水たまりが多くのこっていた。しかし、いま(永正九年)は水たまりがなくなったので、中野を館の地と定め、三年間をかけて普請して、永正十二年『わたまし』をしたと伝えている」との記述がある。わたましをした館とは、小舘の(たて)をさしているのだろう。さらに「しかし、多くの百姓が離散したという」ともある。館築造の夫役(労役)に耐えかねてのことだろうか。
 それでは、高梨氏の北進と本拠地の中野郷への移動の背景には何があったのだろうか。まず第一には、南への進出が、須田氏・井上氏、なかでも村上氏がいたために難しく、勢力拡大のためには北へ進むしかなかったこと。第二に、その北進策が成功し、領地が北へ延び、とりわけ中野以北にかたまってきたこと。また、越後でも魚沼郡・頚城郡などに領地を多く持っていたので、所領全体を支配するうえからも、本拠地の北への移動が必要だったと考えられる。第三に、騒乱の時代にふさわしい拠点の必要に迫られていたこと。ここで、中野郷の位置する中野扇状地周辺を概観すると、北から東南にかけては山岳地帯、南部の入口は湿地帯(延徳たんぼ)、西から北にかけては千曲川・丘陵、北の入口は山が千曲川に迫っている。まさに天然の要害をなしていたのである。とりわけ居館の設けられた近辺の中野東部山岳地帯は、室町・戦国期の山城跡を多数のこしているように、軍事的条件にかなった地域であった。さらに、夜間瀬川流路の現河道への移動によって、広い中野扇状地上の住民の生活の安定性・土地開発の可能性が高まったことなどがあげられる。
 
高梨城下と松川との関係
高梨氏が中野郷を手に入れ、小舘の(たて)に移ってから、松川はだれによって支配されていたのだろうか。以下、「同書」(湯本軍一)をもとにして、記述をすすめる。中野郷にふくまれる松川は、高梨館の所在地として、高梨本家の直轄領とされていたのであろう。
 高梨氏は、日常の生活の場であった字小舘の館と、館の東側にある鴨ヶ岳(かもがたけ)を軸に東西に城下市町を形成していたと考えられている。館については、最近の発掘調査によって、中野氏の館を継承し、整備・拡張したものであることが、ほぼ確認されている。鴨が岳城は、いざというとき立てこもるための詰めの城(山城)であった。小舘の館に比較的近い松川の地(中野郷)は、城下のなかでどのように位置づけられていたのだろうか。
 館のまわりは、当時「館廻(たてまわ)り」と呼ばれていた。これは、東は小田中から王日神社へつづく道、北は中沢写真館下の道、西は如来寺から南に延びる道、南は中野高校のグラウンドの北から如法寺につづく道に囲まれた、ほぼ現在の「小舘」「館廻」「諏訪町」の三つの小字をふくむ広い範囲であった。「館廻り」とは高梨氏の館を取り巻く地域のことであり、高梨氏の支配がもっとも強くおよぶところであった。また、館の防御線を形成し、高梨氏家臣の一部や直属の手工業者が住んでいたとみられる(同書)。
「館廻り」の外側には、寺や神社が配されていた。松川では、高梨氏開基と伝えられる泰清時寺、高梨館の鬼門()けと伝える松川神社(山神社)、関山慧玄の開基と伝えられる霊閑寺があった。
 また、六軒町には、小字「阿弥陀堂前」があり、阿弥陀地蔵が立っている。昔、阿弥陀堂があったところと伝えられている。「本誓寺由緒留書」(新潟県上越市高田)によると、本誓寺(浄土真宗)が関東から中野に移り、中野氏を檀那として「光堂(ひかりどう)」という見事なお堂を建ててもらったが、中野氏は高梨氏に討たれてしまう。そこで本誓寺は笠原氏を頼って笠原郷に移り、そこそこ栄っていたが、笠原氏も高梨氏によって滅ぼされてしまうので、今度は(うし)()へ引っ越した。やがて高梨氏によって、ふたたび中野へ招かれ、「阿弥陀堂」という立派なお堂を建ててもらったという。中野氏の建てた光堂の位置は定かでないが、おそらく高梨氏の建てた阿弥陀堂は光堂の跡だろうか。「光堂」「阿弥陀堂」とも、阿弥陀如来を祀ったお堂で、墓地に建てられたお堂のことである。お堂を中心に墓地が開かれたり、墓地の中にお堂が建てられたという。松川にあった阿弥陀堂のまわりも、墓地だった。南照寺の境内に安置されている多くの五輪塔は、夜間瀬川の洪水によって阿弥陀堂から流されてきたと伝えられている。阿弥陀堂は天正二年(1574)の夜間瀬川の大洪水で流され、若宮に移転し、それが現在の正翁寺であると伝えている。
 ところで、阿弥陀堂は、館から見ると西北にあたる。わが国では、昔から西北方は祖先の霊の去来する方向と考えられてきた。ここは城外の外れ、館から見て西北にあたり、夜間瀬川の旧河道に近く、河原のようになっていた境界の地であった。したがって、阿弥陀堂のあたりは墓地にふさわしい場所であった。
 さらに、松川には「古屋敷」がある。そこは江戸時代南照寺の寺地になっていた。また、寛文五年(1665)の検地帳の小字「南照寺前」が、「古屋敷」の真南にあたる。このことから、現在地に移る前の南照寺は、「古屋敷」にあったことがわかる。寺伝によると南照寺は、平安時代の末、高野山(和歌山県)の僧観中(かんちゅう)によって創建されたという。のちに高梨氏からも助力を得たが、天正六年(1578)の夜間瀬川の洪水で寺堂を失い、仮のお堂に本尊を安置していた。そして、江戸時代(明暦元年・1655)になって現在地に移った。ところで、南照寺には善光寺仏(一光三尊仏・室町時代前期の作)がのこっている。「遊行二十四祖御修業記」には、永正十七年(1520)に、信州の中野に「中野新善光寺」があったとしるされている。この新善光寺とは、善行寺仏(十四世紀作)を今に伝えている南照寺(古屋敷)のことと考えられる(湯本軍一説)。
 このように、高梨城下の外縁部に位置した松川の地には、とりわけ寺院が多く、また館から見て西北にあたる阿弥陀堂のあたりは、墓域として位置づけられていたようである。
 また、寛文五年の検地帳(1665)に、阿弥陀堂前(六軒町のあたり)・堂の裏(南照寺の裏のあたり)・堂の東(南照寺の東側)・堂の上(南照寺の古屋敷の北側あたり)という小字がある。阿弥陀堂関係の一連の地名だろうか。あるいは南照寺にちなむ新たな地名か。『南照寺史』では、この地に高梨氏の建てた善光寺如来を祀った如来堂(川東善光寺)があったとしている。すると、新善光寺(古屋敷の南照寺)との関係が矛盾する。
 また、高梨城下の主幹道路は、中野郷の東南から「館廻り」に入って、館の前にでて、「館之内」の前を西に走る谷道であった。松川の地では、旧南照寺(古屋敷)と現南照寺の前を東西に走る小道が、主幹道路と並行するように走っていた。さらには現南照寺前の縦通り(大門町通り・中町通り)も、東西に走る道を結ぶ小道として存在していたのではなかろうか。
 
高梨氏没落後の領主
 甲斐(山梨県)の武田晴信(のちの信玄)は、天文十一年(1542)に諏訪地方を手に入れていらい、信濃侵攻をつづけた。同二二年には、東・北信の雄村上氏の本拠地葛尾(かつらお)城(坂城町)が落ち、村上氏は越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って亡命した。つづいて高梨氏も、武田氏の調略によって一族の小嶋氏(山ノ内町)や家臣の夜交(よませ)氏(同)に離反され、長尾氏を頼って越後へ亡命した。弘治二年(1556)のことらしい。亡命した村上氏や高梨氏の要請によって信濃へ出陣した謙信と、信玄との間に繰り広げられたのが、五回にわたる川中島の戦いである。世にいう川中島の戦いというのは、永禄四年(1561)におこなわれた、第四回めの激戦のことである。その結果、当地方は武田氏に支配されることになった。
 しかし、天正十〇年(1582)三月武田氏が滅亡、かわって北信四郡(更級・埴科・水内・高井)は織田信長の家臣森長可(もりながよし)が支配した。しかし、同年六月本能寺の変で信長が討死、森が退去したため、越後の上杉景勝(謙信の養子)が北信四郡を手に入れた。
 こうして、武田氏に追われて越後へ亡命していた高梨氏も、中野地方において一部だが領地を回復した。しかし景勝からは、かつての本領には先忠の者がいるからと、本領のうちから、のこりの二〇〇〇貫の地をあてがわれただけだった。この「先忠の者」とは、小嶋氏のことである。高梨氏が中野から亡命する前年、高梨氏を裏切った小嶋氏は同心衆七人と、武田信玄から戦功として「高梨之内 河南一五〇〇貫(の地)」をあてがわれている。小嶋氏はこの土地を武田氏のあと、森氏・上杉氏からも安堵されている。この河南一五〇〇貫の地は、夜間瀬川以南の地で、小舘の館も松川もふくんでいたものとみられる(「中野市誌」)。
 ただし、天正一八年末には、高梨氏と小嶋氏との永正いらいのわだかまりが解消し、両者の景勝への働きかけによって、高梨氏がふたたび小舘の館を取りもどすことができた。いっぽう、文禄三年(1594)の上杉氏の分限帳によると、高梨氏は他の信濃侍と区別され、越後侍となっている。越後侍(本拠が越後)になった時期や事情、それにともなって領地に変動
があったかは定かでない。
 慶長三年(1598)、豊臣秀吉は上杉景勝に会津(福島県)への国替えを命じた。その命令では、「中間(ちゅうげん)小者(こもの)」といった百姓出身の下級奉公人まで連れていくこと、ただし百姓はいっさい連れていってはいけないとしている。高梨氏をはじめ北信の武士たちはほとんど、上杉氏に従って会津へ移った。
 そのあとは、北信四郡は秀吉が支配することになった。秀吉の取り立て大名である田丸(たまる)(なお)(まさ)が海津城(長野市松代)に四万石で、関一(せきかず)(まさ)が飯山城(飯山市)に三万石で入り、のこりの約五万五千石は秀吉の蔵入地(くらいりち)(直轄領)とされた。松川がずれに属していたか定かでないが、『中野市誌』は、中野地域の村むらは、その大半が秀吉の蔵入地に編入されたと推定している。
 それもつかの間、秀吉死後の同五年には徳川家康の命令で田丸・関は美濃(岐阜県)に移され、かわって森(ただ)(まさ)(森長可・森蘭丸の末弟)が美濃兼山(かなやま)七万石から、海津城に入って、北信四郡十三万七五〇〇石を治めることになった。そこで、松川も森氏の支配下に入ったのである。

 
「松川区史」24p~33p。西暦年度表記のみ横書きに改編。

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