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松川のあけぼの 松川の立地条件

第1節 松川のあけぼの
一 松川の立地条件

中野扇状地と松川
 中野扇状地は、箱山の北端にあたる夜間瀬橋付近(海抜480メートル)を扇頂として、扇端部へと広がりをみせる。扇央部は、中野小学校北側付近を中心に箱山すそ平岡地籍の金井にかけて、南北方面に広い楕円形を形づくっている。扇端部は、間長瀬~西条~新保(海抜約330メートル)とつづく湧水地帯である。中野扇状地の規模は、中野市全面積の約四分の一をしめる広大なものである。松川は、その扇状地中央の東側(海抜380~390メートル)に位置している。
中野扇状地は、夜間瀬川によって形成されたものである。夜間瀬川の本流は、古くは松崎~竹原~一本木を通り、松川をかすめるように吉田~岩船~江部を過ぎ、延徳沖へ流れこんでいたといわれている。中野扇状地は、幾度となくくり返された氾濫によって形成されていったことは、つぎの事柄から確認できる。
ひとつには、昭和36年(1961)の東京農地事務局計画部による地質調査では、一本木地籍の稲向府太元(いなむきおおもと)神社周辺一帯を、夜間瀬川による氾濫の中心的位置として想定していること。
二つめには、45年に実施された魚力(うおりき)スーパー(元西友中野店)で深井戸調査をしたとき、地表下約60メートルを優に超す厚い砂礫層の堆積が確認されていること。
夜間瀬川が、現在の流路に変わったとされる時期は、越と金井との村境の推移や文書上に初出する村むらの時期、またその地名などから、十五世紀ころと考えられている。
それまでの夜間瀬川の氾濫による水害は、松川をはじめ下流の村むらを幾度か襲った。その結果、扇状地の扇頂部から扇端部にかけて、幾重にも重なり合う厚い砂礫の層をつくり、その先に千曲川による湿地・肥沃な延徳たんぼを形成した。
この中野扇状地の扇央部にある松川は、長い間その生活や生産活動において、夜間瀬川の氾濫の影響を十分に受けやすい範囲に含まれていたのである。それは、つぎの三つの事実からも推測できる。
一、現在まで松川区内からは、原始・古代の遺跡が確認されていないこと。これは、たび重なる夜間瀬川の氾濫のために、古代人はその水害の危険を避けて、扇状地内へ集落をつくらなかったのだろうか。あるいは、集落が営まれたとしても、氾濫によるその集落が破壊・流出したり、または地中深く埋没してしまったためだろう。
二、寛文五年(1665)の検地帳によると、松川は水田にくらべて畑地が耕地全体の八割近くをしめていること。このことは、扇央部という厚い砂礫に覆われていて、水田にとっては不利な立地条件のためではなかろうか。
三、現在も松川区内に中川原・下川原などの小字がのこっていること。このことは、この地域がまさしく夜間瀬川の氾濫地帯であったことを示しているのであろう。

「松川」地名の由来
 松川という地名のおこりは、この地域が扇状地の扇央部に位置し、扇頂部の松崎から流れ下る夜間瀬川の河原地帯であったことから、その地名がついたという。現在、これが通説となっている。
いっぽう、「松」という文字は、松が常緑樹であることから長寿などの象徴とされ、縁起がよく、あるいは河原などのやせ地でも成育できる植性の強さなどから、松にちなむ地名が日本各地で多く使われている。
ちなみに市内で「松」の文字を使用した地名では、JAなかの旧Aコープ平野店裏を通り片塩地籍へ流れる「松崎川」の例があげられる。また県内では、「松川新田村」(上高井郡小布施町―松川の下流、松川扇状地)、「松岡新田村」(長野市―千曲川と犀川との合流点北側)、「松川」(北安曇郡松川村―高瀬川右岸)などがあげられる。これらは、ここ松川と同様に、昔から氾濫の影響を強く受けた地域であるという、立地条件に共通性がみられる。
そこで当松川の地名のおこりについて考えるとき、その立地条件から、中野扇状地のなかを流れ下る川沿いに松が群生した氾濫地帯を、付近の人々が汗を流しながら開発をすすめていった風景が浮かんでくるのである。

(松川区史 第一章 戦国時代までの松川 第一節 松川のあけぼの p5~p8)

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